エステティックの夜明け
エステティックが文化として日本で確立される前、さまざまな美の先人たちの尽力が、その発展を支えてきたことは言うまでもない。一般顧客層から認知されるまでに長い年月を要したエステティックだが、実は昨年2024年は、エステティシャンという言葉が日本で職業を指し示すものとして誕生以来、60周年にあたる年だった。
そこで今回、知られざるエステティックの草創期を中心に、その歴史を紐解いていくことにした。美の創造に携わる者として知っておきたい歴史のエピソードの数々を、貴重な資料写真と共にお届けする。
日本のエステの始祖
芝山兼太郎氏・みよか氏
エステティックという概念は、ヨーロッパで200年以上前に誕生したとされている。歴史上、ヨーロッパ諸国ではヘアサロンなどの造形的な美容と、皮膚やボディラインを美しく保たせるための基礎的な美容が誕生時から分類され、それぞれに発展してきた。
エステティックの本家ともいえるフランスの場合、髪の毛に関するものは「コワフュール」と呼ばれている。そして、ヘア以外の基礎的な美容を「エステティック」または「ソワン・エステティック」と呼び、ヘア関連とヘア以外の美容をはっきりと区別している。
日本における現在のエステティックに通じる文明の源流は明治時代、横浜に伝来した。日本では、ヘアとヘア以外という、似て非なる美容が同種的に発展していった独特の経緯がある。これには、伝来時のエピソードが深く関わっているため、ここで紹介したい。
日本のエステティックの草創期は、日本の美顔術・全身美容の始祖として名高い芝山兼太郎(かねたろう)氏と、その愛娘・みよか氏を抜きに語ることはできない。
芝山兼太郎氏は1873年(明治6年)、熊本に生まれた。生家の事情により、幼い頃、熊本から神奈川県都築郡の庄屋・山崎覚左衛門という人に預けられ育ったという。記録によると、山崎覚左衛門の遠戚に鈴木某という理髪師がいて、兼太郎氏は13歳の時にそこへ弟子入りをした。
その後、当時横浜港を中心に貿易・輸入文化の中心地であった横浜で著名だった理髪師・松本定吉に師事し、1895年(明治28年)、横浜・山下町に『日之出軒』を開業した。
米国人により伝来したエステティックの概念
芝山兼太郎氏は『日之出軒』開業後、すぐに『パレス・トイレット・サロン』と名づけた、理髪部と婦人部に分けたサロンをオープンした。外国人や水商売を生業とした女性客でにぎわいながら、当時の日本においては異文化かつ最先端の空間だった。このサロンにて、日本におけるエステティックという概念の先駆けが誕生することになる。
きっかけは、そのサロンを訪れた一人の米国紳士、ドクター・W・キャンブルー氏だ。いかにも教養人らしい堂々たる風貌の中年紳士が突然「私は顔、頭、ボディ、両手足にほどこす術を研究している者で、東洋のマッサージと比較研究するために来た」と、半ば宣言書でも読むかのように言い放ったという。
「アメリカで徐々に流行りつつある技術を伝授したい」と米国の医科大学で生理学を講じているキャンブルー氏自らの突然の申し出は、西洋の新技術を導入したいと願っていた兼太郎氏の常日頃の思いとも一致した。そこで、フェイシャルマッサージ(当時はフェイスマッサージと表記)の技術を伝授してもらうことになったのだ。
血行療法を主としたその求心的な手技の習得はもちろん難しく、日夜に渡った。だが、兼太郎氏は天才的な器用さの持ち主でもあり、難解なその技術を驚くべき早さで習得した。
全国への普及と教育への展開
また彼は、学んだ技術を自らの利益だけに留めず、全国的な普及、教育を望み、行動を起こす。研究を重ねながら、急進的な技術をできるだけシンプルに変化させつつ淘汰し、それを伝授する全国講習を行った。そのような努力の甲斐もあり、フェイシャルマッサージは横浜界隈から徐々に全国へ広まっていくこととなる。そして、現在にも通じる手技の基礎が確立されていった。
技術指南書を刊行「美顔」という言葉
同時に兼太郎氏は、自ら指南書となりうる著書『実用美容術指針』を執筆(1912年(大正元年)刊)。講習活動のため全国を回り、フェイシャルマッサージ、美顔術の技術指導のかたわら講師を育て、業界全体への普及へあらゆる尽力を注いでいく。
その頃は、職人修業と同じでいわゆる「見て盗め」という技術の伝授が一般的であったが、兼太郎氏はあくまでも学術的な側面も同時に教育していった。「新しい技術を受け継ぐ方法」もある意味欧米的で、革新的な方法を選んだといえよう。
だが、やっとの思いで技術の普及が始まったフェイシャルマッサージに、意外な場所から異議申し立てがかかる。その当時あった按摩(あんま)のマッサージ団体から、「無資格でマッサージを行っている」との抗議があがったのだ。
兼太郎氏はマッサージ業界との折り合いをつけるため、その頃確立されていたマッサージの免許を習得し、盲人学校(当時は盲人がマッサージに従事するケースが少なくなかった)に長年寄付をするなど、元々のマッサージ業界の団体との友好化に尽力することで、事なきを得たのであった。
「全身の治癒を目的にしたマッサージではなく、顔を美しくするもの」という、まさに新しい美容への試みであったフェイシャルマッサージは、前述のマッサージ団体の抗議などもあったため、それまでにあったマッサージと一線を画すために「美顔術」(びがんじゅつ)と呼ばれるようになる。
「美顔」という言葉自体の誕生の経緯には諸説あるのだが、全国的な普及を願って「日本語で発音しやすいものを」との考えから生まれた説が有力だ。これにより「美顔水」「美顔マッサージ」などの言葉も次々と生まれ、新聞や雑誌などにも取り上げられた。
時代は大正を経て、昭和へと変わっていく。兼太郎氏は1929年(昭和4年)11月、横浜の自宅で心臓発作により逝去した。
戦後の経済復興と共にエステティックも伸長
戦後の経済復興ですべての業種が息を吹き返すように復旧へ加速する中、エステティック業界も段階的ではあるが成長していった。
父・兼太郎氏のフェイシャルマッサージ普及の全国巡業に、娘・芝山みよか氏もついて回った。みよか氏は1907年(明治40年)、横浜生まれ。日本最古の女学校、フェリス女学校在学中から、父・兼太郎氏に「旅は出会いの場、勉強の場」と諭され、講習行脚に同行していたのだ。自然と、父の偉業を受け継いでいくこととなっていった。
1948年(昭和23年)、みよか氏は東京・銀座に美顔術を主とした『ギンザ美容科』を開設。こちらは広い待合室、カウンセリングルームからシャワー、美顔室(施術部屋)など、現在のエステティックサロンのほぼ原型ともいえるものであったという。
そして1951年(昭和26年)には単身フランスへ渡り、世界に先駆けて美容サロンを始めたと名高いヘレナ・ルビンスタインのもとで最新の美顔術および全身美容術を学んだ。
当時の日本において、エステティックという名称は世間に浸透しておらず、ボディマッサージを施術として行うための免許を得るのにも難航した。「美容師の免状でやれるような名前をつければ認める」という役所の指示があった背景もあり、やがて「全身美容」という言葉で表現されるようになった(くしくも、父・兼太郎氏の按摩マッサージ団体との摩擦と同じような試練が降りかかったのだ)。
1964年 エステティシャン誕生
「全身美容」という言葉が使われるようになった後、芝山みよか氏は「エステティシャンを養成する学校」をキャッチフレーズとした、シバヤマ美容研究所を設立した。1964年(昭和39年)より、美顔術、化粧品、全身美容の専門技術者を日本でエステティシャンと呼ぶようになり、その呼称が今日まで一般に認知され続くこととなる。2024年が60周年というのは、この1964年にエステティシャンという言葉が使われ始めたことに由来する。
「女性が自らきれいになること」が市民権を堂々と得られた高度経済成長期を迎え、メイクアップなどを中心とした「外装美容」も急速に発展していったが、生理的な美容法ともいえるエステティックも、それに呼応するかのように発展をとげていく。
きれいになるために努力すること、自分をあらゆる面で磨くことが急速に必要になった時代がやっと到来したのだ。そしてその時代の流れが、エステティック発展の後押しになった。だが一方で「美容師法」が制定された頃から、エステティックの法律の定義づけがあいまいなため混乱を招くといったトラブルも発生するようになっていった。
「もはや戦後ではない」などといった流行語が生まれる頃になると、生活の中で「美容」を楽しむ風潮もたくさん生まれてくるようになった。
成長から成熟へ豊穣なエステ業界に
エステティックを含む美容業界全体においても、欧米をはじめとした諸外国との国際交流が盛んになっていく。その代表格が、世界的な新しいエステティックの時代の幕開けを告げることになった国際的エステティック団体、シデスコ(CIDESCO / Comite International d’Esthétique et de Cosmetologie)=エステティシャンと化粧品学の国際委員会)の誕生だ。シデスコはベルギーにおいて、エステティックの国際的な交流と普及、発展を基本理念に世界各国のエステティシャン、学識経験者、美容メーカーが集まって結成された。これにより技術や情報が自由に交流できるようになり、特に美容術の進歩に貢献していく。
エステティックが医学を初めとする自立訓練法、体育学、栄養学、マッサージ法などのエステティック周辺に位置する広い分野の領域とも混じり合うことができるようになったため、「美容術」は単なる手仕事から、独自の理論と哲学をもつに至ることになる。
1970年(昭和45年)には、シデスコ日本支部にあたる「日本エステティシャン協会」(CIDESCO NIPPON)が正式に発足している。同年、オランダ・アムステルダムで開かれた第24回シデスコ国際会議に個人オブザーバーとして日本から参加した芝山みよか氏が、現地で日本支部設立の許可を得て実現したものであり、エステティシャンに関する日本初の全国組織となった。
「日本エステティシャン協会」のメンバーには皮膚科の医師や器具メーカーなどの代表者なども含まれており、イタリアのGT社、タカラビューティメイトがネメクトロン社と提携し機器を輸入販売するなど、「日本のエステ業界」を国際的な水準までに押し上げようと、関係者は必死に動いたという。
また同時期、シデスコと異なる国際組織「国際エステティック連盟(INFA)」に日本からも初めて参加。エステティックが産業として、現在の土台づくりを始めていったのだ。
そうした先人たちの並々ならぬエステティックへの情熱が見事に花開く80年代に突入する。協会設立から10周年目にあたる1980年には、アジアで初めての開催となる第34回国際会議・日本大会が開催されるまでに至った。関係者が心血を注いだこの大会の成功は高く評価され、翌年9月に開催された第35回国際会議・ウイーン大会では、シデスコ賞の受賞となって報われた。
このようにエステ産業が存在感を高めていった一方で、エステティックサロンの開店ブームがマスコミを巻き込みながら生まれ、エステティックという確固たる分野が、美容業界とかけ離れている層などにも深く浸透し確立していったのも、この時期であった。
芝山兼太郎氏が米国人ドクター・W・キャンブル―から学び、改良に改良を重ねて完成した芝山式美顔術。受け継いだ愛娘みよか氏は2009年(平成21年)、101歳で大往生した。
芝山兼太郎・みよか父娘が種をまき、水と肥料を与え続けたエステティックの土壌は、長い年月を経て、今なお実り豊かな業界へと成長を遂げている最中だ。