終戦直後の5歳が見た未来──「日本美容のこれから」
トニー:ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。
トニー:僕は終戦直後の1948年に経堂で生まれました。大きな豪農がありまして、一家はそこの片隅を借りて暮らしていました。周囲は見渡す限りの畑と野原がつづき、僕はそこをターザンのように駆け回っていた野性的な子どもでした。その当時の日本女性の格好と言えば、モンペか着物に、ひっつめ髪。敗戦後の日本は、そのように素朴で質素な暮らしが根付いていました。
あるとき、在日米軍の将校クラブで通訳をしていた叔父に連れられ米軍立川基地に遊びに行きました。ご存知のように、在日米軍基地の地籍は米国にあって、基地の中に一歩入ればアメリカの生活文化が広がっています。僕が5歳にしてその立川基地を訪れたとき、当時の日本では考えられない光景を目にして、とてつもない衝撃を受けました。将校たちは、のちに日本で一大ブームを起こすVANジャケットなどのアイビールックファッションを着こなして、ハンバーガーやローストビーフを食べていました。僕は、生まれて初めてコカ・コーラを飲みました。敗戦国である日本の景色とは180度対局的な、アメリカの豊かさと繁栄に満ちた光景が広がっていたのです。
トニー:それはそれは華やかでした。立川基地の中には、将校クラブの婦人たちが通う「ヘレン」という美容室がありました。そこにはレブロンのメイクアップアーティストがいて、メイクをしたり、ヘアセットをしたり、ネイルをしたりしていました。婦人たちはゆるやかなウェーブのかかったブロンドヘアに真っ赤な口紅とマニキュア。シャネルスーツのような服をかっちり着込んでいて。そのようなアメリカ人女性の姿は、僕にさらなる衝撃を与えました。その瞬間がきっかけでこの世界に入ろうと決めました。
トニー:そう。5歳でアメリカの文化に触れて、愕然としたとともに「日本の未来はこうなるんだ」と、想像しました。僕は子どもの頃から未来を見る力、俯瞰力が優れていたんです。僕があのときに見た光景は「日本の未来」だった。それが直感的にわかったんです。真っ赤な爪や唇を携えたウェーブヘアの女性たちを見て、数十年後の日本の女性はこうなる、と。だから、僕は美容にとても興味を持ち、どんどんのめりこんでいきました。ちょうど小学校に入った頃には、地元の経堂に「ヒロ美容院」という美容室ができました。僕はそこにずっと入り浸って、お店のお手伝いをしていました。そのうちに、シャンプーの秘技を覚えまして。10歳のときにはすでに、シャンプーの指名客が何十人もいたんですよ。
トニー:そうですね。「ヒロ美容室」には俳優のご婦人方や、今でいうセレブリティな方々がたくさんいらっしゃっていました。
トニー:高校時代は夜間の美容学校に通うと同時に、当時、「夜のヒットスタジオ」などの有名番組を立ち上げた構成作家の塚田茂さんの家に出入りしていまして。そして日劇や銀巴里に出入りするようになりました。また、そのころのアメリカのテレビや映画にも傾倒していました。最も触発されたのは、1939年に公開された『オズの魔法使』。この映画で、チャールズ・シュラムさんというメイクアップアーティストが手がけた、かかしやブリキ男、臆病なライオンなどの特殊メイクは、とても斬新なものでした。そのようなできごとが重なって、僕はエンターテインメントの世界に出会っていきました。
トニー:かつては俳優のオーディションへのオファーもありましたが、僕の興味は、もっぱら“裏方”の世界。だから、とことん美容の世界を究めていきました。美容学校を卒業すると同時に、僕は植村秀先生の所に弟子入りを申し出ました。そこから本格的なメイクアップの修業を積み、1969年、21歳のときにワーナーブラザーズの日英米合作映画『マスターマインド』でメイクアップアーティストとしてデビューしました。